閑話休題5 林太郎と横浜市歌

さんはご自分の住まわれる市の市歌をご存じでしょうか。知らない方がほとんどだと思います。市には代表される木、花、鳥があるように大抵は歌があるそうです。しかし、横浜市歌は違います。明治42年以来作らせて以来、市内の小学校では必ず教えられています。横浜市の人間は一度は歌ったことがあると思います。80年余りの間歌いつがれている市歌は、他にないと思います。フランスでいえばパリのシャンゼリゼみたいなものでしょうか。

の横浜市歌は明治42年に50周年記念の歌として作られました。作詞は森林太郎(鴎外)。作曲は当時東京音楽大学助教授の南能衛(よしえ)です。ところがこの当時の記録は大正12年9月の関東大震災昭和20年5月29日の第2次世界大戦の大空襲ののためほとんどが消失してしまいました。そのため当時の様子を知るには林太郎の日記しかありません。それでは日記を見てみましょう。
 
 

明治42年  
       
2月 5日 
3月21日 
5月12日 
6月 6日 
「ニューデリー、東京地下の、市役所の市歌会議に行く。」 
「横浜市庁、三橋延方の代人、三宅靖処来て、市歌を作らん事を乞う。」 
「南能衛、横浜市歌のことを相談に来る。」 
「南、音楽学校より電話にて予を招く。行きて、横浜市歌の譜を見て、直ちに転記す。」 
 
まり鴎外は明治42年6月6日東京音楽学校に行き、帰国間もない南能衛の作曲したメロディーにあわせ「わが日の本は島国よ…」 と歌詞をつけていったわけです。これはトリオケースのオーソドックスなマーチで、歌詞は1番から順に発展して行き、3番「飾る宝も入り来る港」で完成するという当時日本では初の試みでした。続きを見てみましょう。
 
明治42年 6月17日 
7月 1日
「横浜市歌印刷前、」 
「時々雨降る、横浜に往き、開港50周年記念祝祭に参列し、始めて、横浜市歌を演奏するを聴く。」

うして7月1日始めて横浜市歌が市民に披露されたのです。ちなみに開港記念日は大正15年まで7月1日でした。これは安政6年6月5日の開港を新暦に直したものですが、大正15年以後は旧暦6月5日をそのまま新暦に移して開港記念日としています。ですから、明治42年は7月1日が開港記念日だったわけです。この時の謝礼金は作詞の鴎外には100円作曲の南能衛には50円でした。当時では大変な金額です。それでは横浜市歌を見てみましょう。
 
 

横浜市歌
作詞森林太郎 作曲南能衛
わが日の本は島国よ 
朝日かがよう海に 
連なりそばたつ島々なれば 
あらゆる国より船こそ通え 

されば港の数多かれど 
この横浜に勝るあらめや 
昔憶えば とま屋の煙 
ちらりほらりと立てりし処 

今は百舟百千舟 
泊まる処ぞ見よや 
果無く栄えて行くらん御代を 
飾る宝も入り来る港

 

なみに鴎外は他にも死去する1年前に「浜松市歌 行進曲」も作っています。こちらは鴎外最後の詩になるのですが、戦後すっかり影を潜めてしまいました。こちらの話はまたいずれ。

談ですが、私の通った横浜市立港南台第一中学校の校歌も変わっていました。普通校歌は四拍子が普通ですが、この学校の校歌は三拍子でした。そしてブラスバンド部が演奏するのです。珍しさから「ニュースの森」も取材に来ていました。そんだけです。最後に、開港記念日は横浜市民は休日です。休日の全くない6月にとってこの一日は貴重でした。しかし県立、私立の学校は休みはありません。はい、余談でしたね。
(Sep.14th.’98)
 

横浜商業高等学校 鴎外は横浜商業学校校歌も手がけています。こちらのページから校歌をダウンロードできます。
軽井沢中学校 学校紹介のページに横浜市歌のページがある。MIDIの演奏有り。