Aug. 16th 98’
 
 
紀伊国屋ビデオ評伝シリーズ「文学と時代 1」 『記録・森鴎外』完成記念
上映会・講演会
 
 平成10年7月21日紀伊国屋書店新宿本店4階、紀伊国屋ホールにて講演会が開かれた。12時50分開演。紀伊国屋書店代表取締役社長松原治氏の挨拶の後、コロンビア大学大学名誉教授、ドナルド・キーン氏から鴎外との出会いの話があった。白髪頭がお年を感じさせたが、がっしりした欧米体格で癖のあるに日本語が親しみを覚えた。キーン氏は自分の鴎外との出会いについて触れながら数作品についての感想を語ってくれた。特にドイツと日本の文化の違いを強調していたように思う。内容の要約は以下のとおりである。

鴎外について

 45年ほど前、初めて日本に留学することになったが、知人に日本文学を勉強しているというと、「では、漱石が好きか、それとも鴎外が好きか」と度々聞かれた。あの時点では「坊ちゃん」や「こころ」ぐらいしか知らなく、鴎外の作品を一つも読んだことがなかったので、「漱石が好きだ」と答えていた。
 1年後「日本文学選集」の仕事に取りかかった。この段階で鴎外の作品を多少理解したが、どの作品を選集に入れるか迷っていた。三島由紀夫さんに意見を求めたところ、三島さんは躊躇せずに自分の名刺の裏に「じいさんばあさん」、「百物語」、「花子」と書いてくださった。私はこの短編を読んでみた。単なる記述文にすぎないという印象を受けたが、二、三回読み直してから三島さんの見解を理解できた。飾り気のない、漢文を思い起こさせる文章に何か読者を感動させるものが潜んでいる。外面的な魅力が少なくとも、読めば読むほど味を覚える。森鴎外文学全般についても同様なことがいえるし、近づきがたい本人についても似たことがいえると思う。

 その後『記録・森鴎外』巻の1「駆け抜ける19世紀」を観る。出生から独逸留学まで。『独逸日記』の引用を交えての当時の独逸文化の紹介がすばらしかった。約20分間の休憩を交えて巻の2「思想としての記録の方法」を観る。日清・日露での軍医としての参加。小倉左遷。豊熟の時代。明治天皇崩御と乃木希典の殉死。史伝小説への転向。などがドラマチックに展開する。私は巻の2の方が気に入った。このビデオは鴎外を知ってる人も知らない人も楽しめる作品であると思う。
 3時半頃から竹盛天雄氏の講演が始まった。小倉左遷問題についての第1人者で初めてお目にかかったが、一目見た印象は「小さい」だった。私は天雄というからには太った体格のよい人物を想像していたが、細身で小柄な方だった。早稲田大学の教授だが今年、定年で退くという。内容の要約は以下の通りである。

「官」にあって「野」の生を夢みる

 明治14年から大正4年までの34年と4ヶ月までの間鴎外森林太郎は官吏として仕える。その後「東京日日新聞」社員客者になるがどうも肌が合わなかったらしく、すぐにやめて、大正6年、帝室博物館総長図書頭に任ぜられている。大正9年、年に一度の正倉院での学芸員の仕事があったのだが、この時、音楽家の田辺ヒサオ氏はその中で蒔絵をほどこされた竪琴に興味を持ち、果たして音がでるのか弾きたく思った。鴎外はそれは自分の一存ではできないといい、臨時〜府を作ることによってそれを実現した。この時、立ち会ったのは3人であったが鴎外の懐には短刀が納められていた。破損などが起こったとき自ら責任を負うつもりだったのだという。鴎外は確かに肩書きの人ではあるが、官僚風は吹かさない人物であった。そしてなにより知識学問を大切にしていた。
 この前後、新聞上で史伝を発表した。これは調査と執筆を同時に行うものであって疲れを伴うものであったが、読者には不評であった。しかし彼には毎日書くことが性にあっていた。官につとめる仕事もライフスタイルの一部となっていたようだ。
 彼は官として明治を生きた。軍医のトップ軍医総監として制約の多い中で自由人としての生き方を実践した。独逸留学後まず手近なところから改革をしながら常に新しいヨーロッパの情報に食指をのばした。彼には「越えんとするもの」「守らんとするもの」があった。前者は身分、制度、国家であり、後者は時代、家であった。
 鴎外の遺書の中に、いっさいの肩書きはいらない。石見の森林太郎として死にたいとあるが、これは「野の中で生きる」というもう一つの自分の生き方への夢を示すものではなかったのだろうか。

 最後は監修者山崎氏の挨拶で終わった。ホール内では鴎外関連の書物が売られていた。この日上映の『記録・森鴎外』各巻30,000円(本体)+税で全国の書店、紀伊国屋書店で購入できます。