出生から独逸留学まで
文久 2年(1862)【 1】
1月19日(旧暦)、石見国津和野横堀に、父静泰(静男)、母峰子の長男として出生。本名林太郎。森家は、代々津和野藩医の家柄で、父は養子。ほかに祖母清子がいた。
慶応 3年(1867)【 5】
9月、弟篤次郎出生。
11月、村田久兵衛に論語を学ぶ。明治 2年(1869)【 7】
藩校養老館に通う。
明治 3年(1870)【 8】
11月、妹喜美子出生。父についてオランダ文典を学ぶ。
明治 4年(1871)【 9】
夏、室良悦にオランダ文典を学ぶ。
11月、養老館廃校。明治 5年(1872)【10】
6月26日、旧藩主亀井氏に従って上京する父とともに出郷。
8月、向島小梅村の亀井家下屋敷に住み、ついで同所曳船通に移転。
10月、神田小川町の親戚西周邸に寄寓して、本郷の新文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。明治 6年(1873)【11】
6月、家族一同津和野より上京。
明治 7年(1874)【12】
1月、下谷の東京医学校予科入学。入学年齢に満たないため、二歳割増しての入学であった。
明治 8年(1875)【13】
4月、父小梅村に家を買う。
明治 9年(1876)【14】
12月、東京医学校寄宿舎に入り、官費生となる。このころ、依田学海に漢文を学ぶ。
明治10年(1877)【15】
4月、東京医学校が東京大学医学部と改称、同時にその本科生になる。同期生に、賀古鶴所・小池正直・中浜東一郎らがいた。
明治11年(1878)【16】
明治12年(1879)【17】
4月、弟潤三郎出生。
6月、父千住に移って、橘井堂医院を開く。明治13年(1880)【18】
寄宿舎をでて、本郷龍岡町の下宿舎上条に移る。
明治14年(1881)【19】
春、肋膜炎にかかる。
3月、下宿屋出火。
7月、東大医学部卒。卒業試験成績8位。帰家し、父の医療を手伝う。文部省留学生の希望達せられず。
12月16日、陸軍軍医副となり、東京陸軍病院課僚に就任。この時、さきに軍医となった小池正直の推薦を受けた。
9月17日、「読売新聞」に、「河津金線君に質す」を投稿発表。明治15年(1882)【20】
2月、第一軍管区徴兵副医官となり、関東、新越を巡回。
5月、陸軍軍医本部課僚となり、おもにプロシャ陸軍衛生制度の研究に従事。明治16年(1883)【21】
3月、プラアゲルの陸軍衛生制度をもとに「医政全書稿本」12巻を編述して、提出。
5月、陸軍二等軍医(軍医名称変更)明治17年(1884)【22】
6月、陸軍衛生制度調査。軍陣衛生学研究のため独逸留学を命じられる。
8月23日東京出発。
10月11日、ベルリン着。
同月、ライプチッヒ大学ホフマン教授に師事。明治18年(1885)【23】
5月、陸軍一等軍医に昇進。
8月〜9月、独逸軍秋期演習に参加。
10月、ドレスデンに移り、ザクセン軍医監ロートの指導を受け、翌年2月までザクセン軍の軍陣衛生学の講習を受ける。明治19年(1886)【24】
正月、 ドレスデンの王宮の賀に列する。
3月、ドレスデン地学協会で、日本から帰ったナウマンの講演を聴き、宴席で反論する。
同月、ミュンヘン大学のペッテンコオフェル教授に師事。
10月、日本兵食論を独逸雑誌に発表。
──このころ、原田直次郎・岩佐新・加藤照麿らと親交を持つ。
12月から翌年1月にかけて、ナウマンと「アルゲマイネ・ツァイトォング」紙上で論争。明治20年(1887)【25】
4月、ベルリン大学コッホの衛生試験所に移る。
7月、石黒忠悳軍医監を迎え、以後、石黒に従って、各種会合に参会。
9月、「ビールの利尿作用について」を独逸雑誌に発表。明治21年(1888)【26】
3月、プロシア陸軍近衛兵第二連隊附医官として入隊。
4月、妹喜美子、東大医学部教授小金井良精に嫁す。
「水道中の病原菌について」を独逸学会誌に発表。
7月、除隊。5日、石黒軍医官に従ってベルリンを出発。
9月8日、ロンドン、パリを経て、横浜港帰着。
参考:『國文学』近代作家年表集成 學燈社 昭和58年4月25日