第一期
明治21年(1888)【26】
帰国後直ちに陸軍軍医学舎(のち学校と改称)教官に就任。
9月12日、独逸夫人、エリーゼが林太郎を追って来日。
10月17日、小金井良精が主に説得に努めてエリーゼ帰国。
12月、印行配布の「非日本食論論将失其根拠」を初めとして、医事啓蒙活動の火蓋を切った。明治22年(1889)【27】
1月、「東京医事新誌」編集主任となり、「緒論」欄を設けて、毎号執筆。
「小説論」(読売新聞)を発表。文芸評論活動を始める。
カルデロン「音調高洋箏一曲」(〜2月「読売新聞」)翻訳活動の開始。
2月から11月にかけては、スタスチック社と統計論争をたたかわせた。
3月、「衛生新誌」の創刊。毎号執筆。
西周の媒酌で、海軍中将・男爵赤松則良の長女登志子と結婚。
5月、下屋の赤松家の持家に転居。
7月、東京美術学校美術解剖学講師となる。
8月、新声社の訳詩集「於母影」(「国民之友」夏期付録)発表。
9月〜10月、石黒忠悳らの企画した日本医学界開催案を「東京医事新誌」誌上で暗に批判。
10月、「文学評論 しがらみ草紙」を創刊。以後毎号執筆。
11月、「東京医事新誌」から追われる。
12月、「医事新論」創刊。明治23年(1890)【28】
1月、処女作「舞姫」を「国民之友」に発表。以後石橋忍月評をめぐり「舞姫論争」を展開。
4月、第一回日本医学会の招聘講演を断り、「医事新論」で批判。
5月から6月、外山正一「日本絵画の未来」を論駁。
7月、中浜東一郎らと公衆医事会を結成。
8月、「うたかたの記」を「しがらみ草紙」に発表。
9月、「衛生新誌」と「医事新誌」を合併、「衛生療病志」を創刊。
於莵誕生。
10月、下屋の家を出て、本郷駒込千駄木町の借家(千朶山房)に移り、妻登志子と離別する。
石黒忠悳、第五代陸軍省医務局長となる。明治24年(1891)【29】
1月、『文づかい』(新著百種)を刊行。
8月、医学博士の学位受領。
9月、「しがらみ草紙」に「山房論文」欄を設け、坪内逍遙と没理想論争に突入。翌年6月まで及ぶ。明治25年(1892)【30】
1月、本郷駒込千駄木町(団子坂上)に移り、医業を廃した父、母、祖母らと同居。
7月、翻訳・創作集『美名和集』を春陽動より出版。
8月、書斎を増築して観潮楼と名付ける。
9月、慶應義塾大学審美学講師となる。
11月、アルゼンチン「即興詩人」を「しがらみ草紙」に連載。明治26年(1893)【31】
4月、第2回日本医学会開催。
5月、「衛生療病誌」に「傍観機関」欄を設け、「医海時報」を相手に、「傍観機関論争」を展開。翌年2月まで及ぶ
11月、陸軍一等軍医正・陸軍軍医学校長となる。明治27年(1894)【32】
8月、日清戦争勃発。
「しがらみ草紙」廃刊。
10月、第二軍兵站軍医部長として、満州に出発。
「衛生療病志」廃刊。
参考:『國文学』近代作家年表集成 學燈社 昭和58年4月25日