第二期
明治28年(1895)【33】
5月、日清講和の成立。宇品へ帰還。その後直ちに台湾へ。台北で3ヶ月を過ごす。
10月4日、東京へ凱旋。陸軍軍医官に昇進。
末、陸軍軍医学校長に復職。明治29年(1896)【34】
1月、「めさまし草」創刊。
3月、「三人冗語」を連載。7月まで。
4月、父静男死去。明治30年(1897)【35】
1月、「公衆医事」創刊。(中浜東一郎、青山胤通らと)
8月、創作「そめちがへ」を「新小説」に発表。悪評を受ける。明治31年(1898)【36】
8月、小池正直、陸軍省医務局長に就任。
10月、近衛師団軍医部長兼陸軍軍医学校長に就任。
11月、『西周伝』を西家より刊行。明治32年(1899)【37】
6月、『審美綱領』ハルトマン原作を春陽堂より刊行。
小池人事で、小倉12師団軍医部長に任命。
10月、福間博来訪、鴎外に師事。
12月、同市宣教師ベルトランについてフランス語を学ぶ。
師団将校のため、クラウゼヴィッツの「戦論」の講述を始める。明治33年(1900)【38】
1月、先妻赤松登志子の死去。
弟篤次郎「歌舞伎」創刊。
2月、「心頭語」を「二六新報」に連載。(翌年2月まで)
7月、以降、福岡県教育委員会他に講演。
12月、小倉安国寺の玉水と唯識論と西洋哲学入門との交換教授を始めた。
京町に転居。明治34年(1901)【39】
2月、「審美極地論」リイプマン「めさまし草」に連載。(10月まで)
12月、「審美仮象論」グロース「めさまし草」「芸文」に連載。(翌年6月中断)明治35年(1902)【40】
1月、4日、東京にて荒木しげ(大審院判事博臣の長女21歳)と結婚。
3月、28日、東京第一師団軍医部長に任じられて帰郷。
6月、「めさまし草」と「芸苑」(上田敏主催)と合併。「芸文」創刊。
8月、「金色夜叉合評」を「芸文」に発表。
9月、『即興詩人』アンデルセンを春陽堂より出版。
10月、「万年艸」創刊。(「めさまし草」に代わる)
12月、処女戯曲「玉篋両浦島(たまくしげふたりうらしま)」を「歌舞伎」号外にて発表。
「新社会合評」を「万年艸」に連載。(翌年2月まで)明治36年(1903)【41】
1月、長女茉莉誕生。
9月、長詩『長宗我部信親』を国文社より出版。明治37年(1904)【42】
2月、日露戦争勃発。
3月、「万年艸」廃刊。
4月、第二軍軍医部長として宇品港より出征。
従軍中は、余暇に詩歌俳句をつくって故国の新聞雑誌に送る。明治38年(1905)【43】
9月、日露講和成る。 12月、満州各地を巡回。
参考:『國文学』近代作家年表集成 學燈社 昭和58年4月25日