第三期
明治39年(1906)【44】
1月、12日、東京に凱旋。
6月、山県有朋をかこむ歌会、常磐会を結成。賀古鶴所も参加。
7月、祖母清子死亡。
8月、第一師団軍医部長に復帰。陸軍軍医学校校長事務取扱となる。
11月、創作『朝寝』を「心の花」に発表。
明治40年(1907)【45】
3月、短歌諸派の交流を企図して、自宅で月一回、観潮楼歌会を開くこと
に。
6月、西園寺公望邸の雨声会に出席。
7月、千葉県東海村に別荘鴎荘をを建てる。
8月、次男不律誕生。
9月、文展の美術審査員(洋画部門)となり、以後大正7年まで続けた。
『うた日記』を春陽堂より出版。
11月、小池正直退官のあとをついで、陸軍医務局長(陸軍軍医総監)に就
任。
明治41年(1908)【46】
この年、小説・戯曲の旺盛な翻訳を再開、計12編を発表。
1月、弟篤次郎死去。
2月、次男不律死去。
6月、26日。臨時仮名遣調査委員会第4会合において、同委員として、
陸軍省を背景に、「仮名遣意見」を開陳。文部省の改革案を葬る。
旧師コッホ来朝。
11月、芸術院または文芸院の設立を文部次官に建議。明治42年(1909)【47】
1月、「明星」廃刊のあとを継いだ「昴」創刊を後援。それを契機に創作
を再開。年間計14編を発表。
3月、妻と母との確執を扱った『半日』を「昴」に発表。妻の激怒を買う。
海外消息「椋鳥通信」を「昴」に連載。(大正2年11月まで)
4月、『常磐会詠草初編』(鴎外作257首所収)刊行。
5月、杏奴誕生。
7月、「昴」に発表した『ヰタ・セクスアリス』のため、雑誌は発禁。陸
軍次官石本新六の戒勅を受けた。
8月、春陽堂から『東京方眼図』を出す。
11月、イプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を翻訳出版。これが
27〜28日、自由劇場で上演、世評を呼ぶ。
12月、妻しげにすすめて書かせた小説『波瀾』を「昴」に載せる。
27日より翌年1月16日まで、軍隊衛生視察のため、関西・中国
・九州を巡視。
明治43年(1910)【48】
ひきつづき創作意欲旺盛で、計16編の短編小説・戯曲を発表。
2月、慶應義塾文学科顧問となり、永井荷風を同教授として推薦。
3月、長編小説『青年』を「昴」に連載。(翌年8月まで)
観潮楼歌会を廃止。
5月、大逆事件発覚。鴎外は弁護士、平出修に無政府主義についての知識
を伝授。
9月、この頃より軍医の人事権問題(補充条例等改正案)を巡って、石本
陸軍次官らと対立。
11月、『沈黙の塔』を「三田文学」に発表。
12月、『食堂』を「三田文学」に発表。
明治44年(1911)【49】
2月、三男類誕生。
前年の問題をめぐって、石本陸軍次官に辞職を請う。
5月、文部省設立の文芸委員会の委員となる。
8月、石本陸相に就任。
美術審査委員会第2部(洋画)の主任となる。
9月、『雁』を「昴」に連載。(『青年』に続く。大正2年5月まで)
10月、『灰燼』を「三田文学」に連載。(翌年12月中断)
再度辞職を申し出る。
明治45年(1912)【50】
1月、五条秀麿ものの第1作『かのように』を「中央公論」に発表。
4月、石本陸相病没。
7月、かねてよりの懸案(補充条例等改正案)が進級令問題として復活。
岡陸軍次官に辞職を請うが、山県有朋の介入によって事なきを得る。
30日、明治天皇崩御。
9月、13日、青山斎場での明治天皇大葬に参列。途上、乃木希典夫妻の
殉死の報をきく。
参考:『國文学』近代作家年表集成 學燈社 昭和58年4月25日