第五期


大正5年 (1916)【54】

 1月、「高瀬舟」を「中央公論」に、「寒山拾得」を「新小説」に発表。
    「渋江抽斎」を「東京日日新聞」「大阪日日新聞」に連載。翌年9月まで。歴史小説から史伝小説に転換。
 3月、母峰子死去。
 4月13日、陸軍省医務局長を辞し、36年ぶりに官位を脱ぐ。
 6月、「伊沢蘭軒」を同紙に連載。

大正6年 (1917)【55】

 9月、エッセイ「なかじきり」を「斯論」に発表。
10月、「北条霞亭」を「東京日日新聞」「大阪日日新聞」に連載。12月中断。
12月25日、宮内省帝室博物館総長兼図書頭に就任。

大正7年 (1918)【56】

 1月1日〜10日、「礼儀小言」を「東京日日新聞」に連載。
 同月、長男於莵結婚。
 2月、「北条霞亭」続稿を「帝国書院」に連載。
 9月、美術審査委員会第3部(彫塑)主任となる。
11月3日〜30日、正倉院曝涼(ばくりょう)に立ち会うため、奈良に出張。以後毎年の例となる。
12月4日、病臥。15日ほど。

大正8年 (1919)【57】

 9月、帝国美術院が創設され、その初代院長となる。
10月、図書寮の業務として、歴代天皇の謚号出典の考証「帝謚考」の稿をおこす。
11月、長女茉莉結婚。

・この年の末から翌年前半にかけて、賀古鶴所との間で、社会主義に関する手紙を多く交換。

大正9年 (1920)【58】

 1月22から腎臓の病で病臥。20余日ほど。
 3月6日、警察官のために社会問題を講ずる。
10月、「霞亭生涯の末一年」(「北条霞亭」続稿)を「アララギ」に連載。

・この年、常磐会解散。

大正10年(1921)【59】

 3月、『帝謚考』を宮内庁図書寮より刊行。
 4月、元号の出典考証「元号考」の続稿をおこす。(未完)
 6月、臨時国語調査会会長となる。
11月、再刊「明星」に「古い手帖から」を連載。11年7月まで(未完・絶筆)
    このころより下肢に浮腫がでて、腎臓病の徴候が著しくなった。

大正11年(1922)【60】

 1月、「奈良一五首」を「明星」に発表。
 2月、長年にわたって仕えた山県有朋死去。
 3月、於莵、茉莉、ヨーロッパに発つ。
 4月30日、英国皇太子正倉院参観のため、奈良に赴く。5月8日帰郷。多く病臥。帰郷後病状が進む。
 6月15日、この日から欠勤する。
   29日、初めて、額田晋の診察を受ける。病名は萎縮腎だが、肺結核も進んでいた。
 7月6日、遺言を親友賀古鶴所に筆受させる。
    7日、天皇皇后より葡萄酒下賜。
    8日、摂政官より見舞品下賜。従二位勳一等に叙せられた。
    9日、午前7時死去。文林院殿鴎外仁腎大居士。のち遺族の希望で桂湖村選の貞献院殿文穆思斎大居士と改める。
   12日、谷中斎場で葬儀を営む。
   13日、遺骨は向島弘福寺に埋葬。墓表は林太郎の意志通り、「森林太郎」とだけ記す。筆は中村不折。

昭和 2年

10月、この墓は三鷹の禅林寺に移される。


参考:『國文学』近代作家年表集成 學燈社 昭和58年4月25日